『言語が消滅する前に (幻冬舎新書)』
「第一章 意志は存在するか」。國分さんの「でも、僕自身はすごく尋問するタイプなんだよね(笑)」がすごく面白い。
中動態的なプロセスについて。そもそもプロセスが文の主語になっているとき、そこでは主体性が(つまりは意志が)マイルドになっている気がする。
反というよりも、半啓蒙的なもの。あるいは結果的に生成される啓蒙。
"徹底的に抽象的なものは、徹底的に現場的になる。これは本当に一つの真理だと思っているんです" by 千葉雅也
國分さんの"もう絶対最後まで読ませる。絶対帰さない、みたいな。"は、とてもよくわかる。
僕もリニア至上主義みたいなところがあるし、本を読むときにもそれを適応している節がある。あるいは、その逆か。
プロジェクトの質問が面白い。僕の仕事の問題としても引き受けられそうな話。
「第二章 何のために勉強するのか」。國分さんのセルフ・キモい話にひたすら共感してしまう。
唐突に自分の名前が出てきて、目玉が飛び出た(比喩
國分さんの、一度浮いた人が再び場に戻れるには周りの手助けが必要ではないか、という指摘は極めて重要に思われる。同じ場に戻るにせよ、新たな共と出会うにせよ、そこには意志を超えた何かが必要となる。
第三章「権威主義なき権威」の可能性。面白すぎてほぼツイートできず。
第四章 情動の時代のポピュリズム。言語の代わりに情動的な記号/イメージを使うことで、コミュニケーションはより"なめらかに"なっていく。それは自他の区別を消し(他者の消失)、心の闇を育むマージンを消すように働くだろう。そうして活発化するコミュニケーションは、IT産業において歓迎される。
たとえば、民主主義も立憲主義によって骨が支えられる。自由市場ですら、外部からの規制があって維持される側面がある。だとすれば、インターネットにおける知の自由主義においても、何かしらの規範(ととりあえず呼んでおく)は必要になるのではないか。
主体化について。自己啓発書のニーズもそこにあるだろうし、そこに有用性が含まれているのもそれが主体化を扱っているから。一方で、本書が指摘するようにそれは徹底されていない。あるいは「主体化させられてしまっている」のような状況にある。
『言語が消滅する前に (幻冬舎新書)』読了。最近はできるだけゆっくり本を読むようにしているが、一気に読み切ってしまった。言語/物語,時間/歴史,意志/主体をめぐるさまざまな対談。